台風と国際交流と教育

 9月の後半は台風続きの週末になりました。前回は九州北上から西日本方面へ、今回は和歌山県南部から東海、関東方面へ接近・上陸しました。線状降水帯が発生した地域では、猛烈な雨よる浸水・停電などの被害が出ています。SNSの活用により、どこでどういった災害が起きているのか、いち早く分かるようになりました。被災地域の声が行政に届き、各地に適切な支援が届くことを願うばかりです。


 9月の台風で思い浮かぶことと言えば「エルトゥールル号遭難事故」が挙げられます。1890年(明治23年)当時のオスマントトルコ帝国が日本の天皇陛下に勲章と贈り物を届ける任務を果たしに来航し、いざ故郷へ帰る9月16日、大嵐に飲まれ、沈没してしまった遭難事件です。

 エルトゥールル号は、1863年(文久3年)にオスマン帝国の首都イスタンブールで帆船として造られました。もちろん鉄ではなく木造船です。その翌年、イギリスに回航し蒸気機関が取り付けられました。産業革命により発展したヨーロッパ諸国を、アジア各国が追いかけていた時代背景が分かります。しかしエルトゥールル号は軍艦としての活躍の機会が与えられず、美しい船体も動いていることは殆ど無かったそうです。

 その後エルトゥールル号は日本への旅の大役に指名されました。アジアの各寄港地でオスマン帝国の海軍威力を誇示し、アジアに散るイスラム教徒たちの連帯を深める目的がありましたが、その当時から既に長旅には耐えられない状態でもありました。出航日の変更が許されず、船体の応急処置がされた程度での出発となりました。往路にかかった時間は修理期間を含め11ヶ月でした。

 帰航前に船内でのコレラが蔓延したことで出航が延期され、日本は台風の季節となりましたが、皇帝の命により早い帰還を求められていたエルトゥールル号は、出航を余儀なくされます。日本側ももちろん台風について助言はしていましたが、帝国の誇りもあったのでしょう、出港したものの、傷んだ木造船は嵐に勝てず、和歌山県串本町の「船強羅」と呼ばれている岩礁に衝突、水蒸気爆発を起こし沈没しました。

 その際、当時の和歌山県樫野地区の村民漁民による必死の救助活動が行われ、69名の命が救われました。紀伊半島も当時は天候に恵まれず、多くの人が飢えに苦しんでいた時代でしたが、遭難した言葉の通じない異邦人に医療だけでなく、食糧や着物など、持てるものを惜しげも無く差し出したと言います。この出来事がトルコと日本との交流のきっかけになりました。

 その後、日露戦争で日本がロシアに勝利したことも、トルコがいっそう親日国家になっていった理由として挙げられます。これら一連のことは、トルコの教育現場でも取り扱われていました。それ故、1980年イラン・イラク戦争開始から5年後の1985年(昭和60年)、イラク軍によるイラン領空の無差別攻撃宣言下で、在テヘラン邦人救出に動いてくれたのは、自国日本ではなく、95年前のエルトゥールル号の恩を覚えていたトルコでした。

 それ以降も、1999年(平成11年)のトルコ大地震では、日本政府がトルコの支援を指示し自衛隊も大いに活躍、2011年(平成23年)の東日本大震災の時にはトルコから緊急援助隊が派遣され、支援を受けるなど、両国間で助け合う関係が続いています。

 現在のトルコの小学校教育では、エルトゥールル号遭難について以前ほどは扱っていないようです。日本では道徳の授業で取り入れている学校もあるようですが、小学生の認知度はまだまだ低いでしょう。しかし、今でも和歌山県の串本町立小学校の子ども達が、墓地や慰霊碑の掃除を定期的に行ってくれているそうです。国同士の思惑は多々あったとしても、根底にこの地域の方々の慈悲深い心が今日まで受け継がれていることは、とても素晴らしいことだと思います。

 子ども達に何を伝えていくことが大切なのか、改めて考えさせられますね。

 過去の出来事をその場で「暗記」するだけでなく、その当時に思いを馳せ、そのことが現代にどう繋がっているのか掘り下げる、そういった教育も必要ではないかと思います。

参考資料:『エルトゥールル号の遭難 トルコと日本を結ぶ心の物語』寮美千子 

『海の翼 トルコ軍艦エルトゥールル号救難秘録』秋月達郎