日本文化を探してみよう!

秋晴れが続き、気候も穏やか、うずうずとお出かけしたくなる今日この頃です。部活動やスポーツクラブの大会、地域のイベントも開催されるようになり、人々の賑わいもあちらこちらで見られるようになりました。街が活気に溢れる様子に、ここ数年を振り返りじわじわ嬉しく思っています。

先日の11月3日は「文化の日」でしたね。「国民の祝日」であったこの日、晴天の中大きな国旗がはためいているのを見て、背筋もすっと伸びるような気持ちになりました。

1946年(昭和21年)11月3日 日本国憲法が公布され、1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法によって「文化の日」と定められました。それ以前、明治天皇の遺徳を偲び、明治時代を追慕する目的で、明治天皇の誕生日でもあるこの日は、1929年(昭和2年)「明治節」と制定されていました。

明治天皇に対し国民が寄り添うことのできるこの日。当時GHQにより明治節が廃止され、日本政府が苦慮しながらもアメリカの圧力にめげず交渉を重ね、明治節を「祝祭日」として残すことを勝ち取った大切な日でもあます。戦前に使用された昭和の「修身の教科書」にも実は、大々的に「明治節」が紹介されており、各家庭での国旗掲揚も当たり前のことでした。


自分は学校でここまで学ぶ機会がなかったものの、市の郷土資料館の倉庫内在庫整理の仕事をして、尋常小学校の教科書を実際に手に取り中を見ることで、知り得たものでした。倉庫には昭和前期の教科書から十返舎一九の『東海道中膝栗毛』等の和綴じ本、写本、その地域の税徴綴りなどが納められ、虫食いだらけの和本や和紙を破損しないよう、悪戦苦闘しながら変体仮名を読み解いた楽しい思い出があります。

明治時代、日本が西洋列強と肩を並べられるようになったその背景には、江戸時代から庶民の教育や文化が発展していたからだと考えられています。特に江戸時代前期の元禄文化では和算が発展し、庶民も数学を説いて楽しむ文化がありました。吉田光由『塵劫記』という算術書、いわゆる「そろばんマニュアル本」が一躍大ブームとなり、江戸時代中頃には庶民もそろばんを使い、九九、割り算、大きい数から小さい数まで自由に使いこなすようになりました。

『天地明察』の映画でも有名になった関孝和は、この本で独自に勉強しただけでなく、そろばん使わなくても計算できる、いわゆる「筆算」を編み出したと言われています。「算額」「遊歴算家」の登場により、全国各地で多くの人が和算に親しみ江戸後期もブームが続いていたそうです。中には神社仏閣に答えを書かず問題を納め、自身の腕を披露し、その難問をまた別の腕の立つものが解き…。数学好きは算額を見て回り、和算は庶民の一種の娯楽のようにもなっていました。
世界的に見ても、庶民が率先して数学を解いて楽しむ文化は珍しいのではないでしょうか。

和算は明治時代には入り、西洋文化の導入によって次第に廃れてしまったものの、庶民の基礎知力の構築に大きく貢献しました。もちろんこれ以外にも多くの要因はありますが、学びに対して実直な姿勢が、明治維新後、短期間で強い国力を備え、西洋諸国に負けない日本に繋がったのだと思います。
ただ、急激な西洋化だけでなく、日本独自の学びや伝統の価値を重視した明治天皇の「12の徳目」もまた、様々な解釈があるものの、日本の強さの秘訣である日本人の国民性の高さに繋がっているのだと思います。

今、世界情勢は不安定化し、いつどこで何が起こるか分かりません。日本にはありがたいことに、長い歴史という遺産があります。学べることがまだ沢山有るはずです。

自分が何を学びたいか、過去にはどんな研究が行われていたのか、興味のあることはどんどん調べてみましょう。やっと活気を取り戻した「今」この瞬間を大切に、毎日を過ごして生きたいと思います。

※「算額」とは

神社や寺院に奉納された和算の絵馬のことで、日本独自に広まったと言われています。問題が解けた喜びを神仏に感謝し、学業成就を祈願する風習として、庶民にも親しまれてきました。
現在、日本数学検定協定が毎年1月23日『算額文化を広める日』と定め、奈良の東大寺に問題を奉納しているそうです。
算額1・2・3 公式ホームページ | 公益財団法人 日本数学検定協会 (su-gaku.net)

全国各地に残っている算額の写真が掲載されているHPです。
『和算の館』WASAN

※「遊歴算家」
全国を旅し、求めに応じて行く先々で数学を教える人で、彼らの活躍により、日本の隅々まで高度な数学が広まっていきました。