某大学の謝辞についての感想
代表の神﨑です。
某大学の某学部の謝辞が話題になっている。
卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。
「私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない」というのはごもっとも。
だが、アイデンティティは我々が生きる世界から取り込んでつくられているということを、残念ながらご理解なさった発言には受け取れない。
むしろ、自らの発言により分断を招き、抑圧的世界を擁護し、競争関係、優勝劣敗の場をつくりあげていることに自覚的になっておられない。
「自分のために大学で勉強した」「金と自由を得るために勉強してきた」「そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である」「私は素晴らしい学績を納めたので『おかしい』ことを口にする権利があった」という発言を拝見する限り、世界から取り込んで自己がつくりあげられているという自覚がないようだ。
「自分のため」というのが世界と繋がるという筋ではなく、自己と世界を分断する主旨で述べられている。
自己の中に世界が、世界の中に自己があるという認識があれば、こういう発言にはならないだろう。
「私は素晴らしい学績を納めたので『おかしい』ことを口にする権利があった」って…
国民全員が権利を持っている。学績の有無、知識の有無は関係ない。
問題は「結果が出ていないから言論するな」「知識がないから語るな」という圧力が問題。結果や知識が伴わなければ、ある人がシェアすればよい。
世界制作をするというのならば、そういう世界のつくりかたをなぜしないのか、ということを問うべきではないか。
そもそも彼女がいう自由は本当に自由なのか、と私は疑問を抱く。
「見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ」というならば、ご自身の主義主張についても思考停止なく、向き合って欲しいと願う。
そして、この謝辞に対して賛辞を述べる方々がおられるが、それは実は彼女と自己とは別の世界の人間であるという意識があるのか、それともこういう人を懐柔できるというのか…
もし彼女が目の前にいたとして、世界の中で共に生きる仲間として生きられるのか、と言われたら…
そして、こういう発言を公開する側も勇気がいる。対話ができない環境であるということを露呈しているということなのだから…
でもそれは大学というよりも、彼女の環境の影響な気がする。
いずれにしても分断の構図からは離れられないのだろうか。
胸が詰まる思いで、この謝辞を眺めてしまった。
おそらく、彼女はこうした風を吹かせようと、あえてこういう発言をしたのだろうと推測している。確信犯。
でも、この掻き回し方には疑問。
一度分断を引き起こす流れをつくると、もう戻れない。
しかもそれを「自分に賛辞」みたいなところで語ってしまうのは本当によかったのだろうか。
ここでグレタ氏と比べてしまうのだが、そこに公共はあるのか、とどうしても問うてしまいたくなる。
それを引き受ける覚悟で語るのはいいけれど、その結果さらに分断を招く世界をつくってしまうと、世界平和から離れてしまう。
「分ける」ことからヒエラルキーが生まれることを本当に考えて語っているのかが、私には分かりかねる。。。