AO推薦入試と「身体化された文化資本」

代表の神崎です。
以下、かなりマニアックな話になるので、それに耐えられる方のみご覧ください。

先ほど、平田オリザ氏の「『身体的資本』という問題」を拝読しました。

平田氏は劇作家・演出家。大阪大学や四国学院大学の入試に携わっています。

「身体化された文化資本」という用語はフランスの社会学者・ブルデューが定義したものです。
これをもとに、一考してみます。
私の落書きなので、「まぁ、こんなこと言ってた奴がいるな」程度に思っていただければ幸いです。
http://note.masm.jp/%CA%B8%B2%BD%BB%F1%CB%DC/


AO推薦入試は「身体化された文化資本」そのものを問うものではありません。
しかし、学問探究の場である大学の選抜試験であるから、どういう文化資本が身体化されているのかを見ることは欠かせないフェーズとなります。
どういう価値観をもとに学問探究と向き合っているのかを覗く行為といえるからです。
 

ここで、AO推薦入試が「どういう文化の中で生きてきたか」が問われる試験と仮定し、思考実験してみます。
 

  1. 資本主義・競争社会で勝ち抜ける学生がほしいという大学(というか試験官)はそういう文化にいた学生が受かるから、コンテスト受賞者等、実績重視の評価基準を持つことになる。プレゼンテーションの良し悪し、面接の返答の様子など、パフォーマンスの成果そのものを重視するようになる。だから、そういう大学には、スキルを用いてマインドの薄さを隠せるような器用な子も入り込むようになる。リバタリアン(自由至上主義者)が有利。
  2. 現状の枠組み通り、知識や技能に長けた、基礎学力を持つ学生がほしいという大学や試験官は、日常で努力することや好き嫌いなく学ぶことを好む学生が受かるから、調査書や学科試験や部活動での様子等を重視することになる。そうなると、そもそも大学で学ぶ意義を問うというフィルターがない場合は、学ぶ意欲がない学生が入り混じることになる。現状の一般入試や指定校推薦入試(面接や書類審査があるがほぼ加味されない)とあまり変わらないところが大きいので、コンサバティブ(保守主義者)が有利。
  3. 国際社会で最高善を求められるような学生がほしい大学や試験官は、受験生が生きてきた過程でそういう葛藤や解決を模索した形跡を見ようとするし、試験も対話の様子を見るものを実施するようになる。志望理由やポートフォリオの確認、グループディスカッションや共同作業を通しての他者とのやりとりや言動や思考の過程を見ることになる。共同体を構築・保持・進化させようとする文化の中で育った受験生には有利な試験だから、一見よさげな試験ではある。一方、才能があっても何らかの事情で社会との接続がうまくない受験生は、この試験でも埋もれてしまう。コミュニタリアン(共同体主義者)が有利。ただし、最高善を求めず著しい平等観を持つコミュニタリアンは厳しいかも(そういう学生を求める大学があるかもしれないが)。
  4. 社会との接続がうまくできない受験生であっても、個々の才能を認める大学や試験官は、受験生が語らない(見えない)世界をじっくり見つめようとする。アサーティブな入試、度重なる対話、ポートフォリオ、多角的な試験を施すことになる。ただ、こうした試験形態は、カント的な世界観を持つ人(見えない世界を見ようとすることが難しい人)には難しい試験だろう。つまり、試験官や制度設計によって成否が左右される。また、受験生がどういう価値観を持つのかがフィルタリングできないので、大学側のビジョン共有(まさにディプロマーカリキュラムーアドミッション、3つのポリシーの一気通貫)が強く求められる。

このように色々な試験形態があったとしても、AO推薦入試で有利なのはおそらくコミュニタリアン(共同体主義者)ではないでしょうか。
様々な価値観が渦巻くなかで、どう舵取りをし、最高善を求めていくのかが考え抜ける、すべてを包含できる人物だからです。
この辺りは各々の宗教観や生活環境、文化水準、要は個々の価値観の構成要素に由来するところが大きいと思われます。
 

そういう視点でAO推薦に関わるプレイヤー(受験生、指導者、大学)を見ると、色々な姿が見えてきます。
ここからは何となくの肌感をもとに仮説で語るので、真偽はわかりません。。。
 

よくあるのは①で進めるプレイヤー。
①を求めていそうな大学は、評価基準が言語化されておらず、試験官の裁量に任せるようなところ(評価軸自体がリバタリアニズムを容認)。
合格のためのスキルや実績に傾斜するような指導もあり得ます。
そういうプレイヤーは実績が積めるコンテンツを導入していきます。
海外・企業研修、著名人が主催するセミナー、自社が行うコンテスト出場等を斡旋する学習塾もあります。
 

ただ、最近は、受験生の合否や試験や書類の様子を見ていると、③が増えてきた印象があります。
AO入試でもルーブリックによるパフォーマンス評価を導入する大学も増えてきたし、3つのポリシーを一気通貫させるために入試制度を吟味するようになったと推測できます。
現状の入試制度を3つのポリシーに寄せるために評価軸を変えざるを得なくなる、というのが適切かもしれません。
 

②をAO推薦入試受験の基準として持つ指導者も少なくありません。
要は評定平均値の低さ(加えて①の活動実績や英語および資格試験の結果含む)をフィルタリングの材料にするということ。
たしかにセンター試験の成績や評定平均の下限を要件として掲げる大学もあるし、試験でこれらを点数化する可能性を考えたら、あり得る判断です。
 

④はなかなか難しい…
そもそもそういう試験はあまり見たことがありません。
だから、結局①ないしは③で戦える受験生を育成するということになります。
ただ、あらゆる才能を集め、集合天才をつくろうというところが理想であるならば(最高善をつくるチームづくり)、こういう試験があってもいいし、私立中入試ではそういうものが出てきてますね。


さて、どの方向で舵を切るべきか。
子どもたちの人生が開かれる、未来の自分をつくるのはどれか。社会や共同体が豊かになる文化資本を有することができるような教育とはどういうものか。
AO推薦入試の領域で、今一度考えておきたいところです。
 

なお、私のいまのところの解答は決まっているし、弊塾ではすでに動いています。