世界は広く果てしない

高山です。昨日、年末年始の話をしていたのですが、義姪が高校受験のため義兄一家は帰省をしないという話が伝わってきました。活動の緩い美術部に所属していたので例年、長期休みに部活動の予定を気にすること無く帰省し、その事に絡み、よく親戚の間では「ウチは兄弟で運動部だったから部活の休みは殆どなかった」とか「遠くに家族で帰省するといっても部活を休むことにいい顔されなかった」など部活にまつわる話が飛び交っていました。

私の中高には部活動が無かったため、世間一般で言うそういった動きとは無縁の学生時代を過ごしてきました。部活動ではなく「クラブ活動」として週に2日、時間で授業と同じようにチャイムで終了、学校が休み中は活動もなく長期休みに学校に行ったこともありません。家人は真逆で、リトルリーグから野球を始め、中学、高校、大学、就職してからは会社の野球部に所属して社会人野球という「野球漬け」で暮らしてきたそうです。話に聞く部活エピソードは私にとってはまさに未知の世界でした。

そんな家人が最近ピアノにハマりました。そして何かにつけ「小さい頃からピアノをやっていたら人生かわっていたかもしれない。なんで人生の貴重な時間を部活で無駄にしたのか、もっと違うことに使うべきだった」と言うようになりました。私からすると「継続は力なり」で、学んだことも身についたこともあると思うのですが、論点はそこではないと言われます。要約すると、野球に打ち込んでもプロになれないことは分かっていた。だったらしっかりその現実を見極めて、野球をしながら他のこともするべきだった。家と学校とグランドという生活ではなく、自分の選択肢を広げるためにもたくさんの経験をするべきだった・・・なんだそうです。

これは、一個人の自分の学生時代への意見で、部活動の是非とは別の問題です。ですが、拘束のほとんどない学生時代を過ごした私からすると「部活があって◯◯が出来ない」に違和感を感じることは事実です。中にはその部活動が良い思い出となり、将来に繋がり、人生を変えたケースもあるのだと思います。部活動を否定するつもりはありませんが「部活一色」ではなく、部活動も◯◯も…にならないことが不思議です。

家人の言葉に加えて、余計にそう思うようになったのは様々な添削を通じて「部活動に打ち込んだ」という文章を頻繁に目にするからでもあります。部活動に打ち込んだ、部活動を通じて一つのことを継続する力を身につけた、部活動を頑張ったので我慢強さがある、部活動を通じて仲間の大切さを知ったetc それは毎日部活動をしていなくても、他の事からでも得られるのではないかと思ってしまうのです。若い頃に熱く何かに打ち込むことは素晴らしいと思います。しかし、限られた学生時代に見聞を広める意味でも、長期休みを利用して課外活動に加わったり、自分の趣味に打ち込んでみたり、読書に浸ったり、それこそ旅行をしたり…そんな過ごし方もあるはずです。

繰り返しますが、部活動が良くないとは思っていません。ただ、部活動一色の生活から視野を広げてみても良いのではないかと思うのです。様々な経験、様々な学びをすることで自分の将来や自分の仕事への見聞が広まるのではないかと、切り口の問題として最近非常に思うようになりました。世界は広く、自分が知らないことが広がっています。固定された視野の毎日から、広く遠くを見る、考える、そんな選択肢があることも考えて欲しい…と部活動を知らない私は思うばかりです。