日本語の読解指導に対する問題意識

国立情報学研究所教授・新井紀子先生の記事を読んで

代表の神崎です。

他のメンバーがあまり語らない、マニアックな記事を書くのが私の役割です。

「国語の読解で、本当に読解能力が高まるのか」という、私の問題意識にかかわる話です。

デイリー新潮の記事に、この業界の人間にとって興味深い記事が載っていました。

国立情報学研究所教授・新井紀子先生が語る『AIの東大挑戦、解けなかった問題は 「8割の高校生が負ける」教育への警告』というものです。

新井先生、同意します。現場では皆、気づいています。

少なくとも私は以前から危機感を抱いています。以下、引用。

今、世の中は英語教育とプログラミング教育を進めようという流れですが、日本語も読めないのに英語を学ぶ意味がありますか。日本語も読めないのにプログラミングができますか。そのことをまだ、だれも考えていません。

まずみなさんにお伝えしたいのは「日本語は母国語だから、日本語の文章は読めるはずだ」という前提は誤っているということです。

新井先生がデータをもとに語っていますが(このデータが確からしいかどうかはまた別の話です)、私の現場の感覚を含めてとらえると、文章が読める高校生ははっきり言って少ないです。

小論文で要約を求めても、全体の論理関係を理解しないで、フィーリングでまとめて終わるので失点を連発します(ちなみに、私は小論文の問題や採点基準を作成する現役職人でもあります)。

課題文型小論文で設問に対する筆者の主張を整理するように求めたりしても、都合のよいところだけを引用してごまかしたり、ひどい場合には曲解したり、課題文を無視したりします。平気で。

生徒に聞くと、読書は嫌いでめんどくさいから本を読まない、新聞も購読していない、教科書は暗記の道具である、国語は先生の板書と漢字や古文単語を覚えれば何とかなる、といった具合です。

文章を読んでいる形跡があまりありません。

読解云々以前の問題のような…うーん…

だから、私も新井先生の主張と同意見です。文章を読み取り、深い思考を巡らすような読解の力が必要だと感じる一人です。

しかし、こういう話は地味なんですよね…

英語4技能のようにグローバル化の文脈に乗らないし、かたやプログラミング教育のように産業界からの要請があるようなものでもないし…

ただ、ここは「読む」という定義をまずは解きほぐさないといけないな、と思うんです。

私が考える読解は、2種類あると思っています。

大雑把ですが、勝手に名前を付けて整理します。

  1. 筆者の論理を読み取るための読解
  2. 筆者の意図を読み取るための読解

新井先生の「読む」は上記1にあたる文同士の論理関係を「読む」(文脈を追う)、いわゆる国語で求める「読む」は上記2にあたる書き手の意図を「読む」ですよね。

ここを切り分けた上で、新井先生は前者を養うことが欠けているのではないか、と指摘なさっていると捉えました。

ここを今まで雑に扱ってきたのではないか、というのが私の思うところなんです。

上記1のように論理関係を読み取るということは、文章を字面通りに読むということを求めることになります。

読み手の解釈を加えることを避ける必要があり、いかに書き手が構築した論理を尊重するかが読解の最優先事項となりますよね。
 

一方で、上記2のように深い思考を求める読解は、そこに書き手の思想や主義主張や時代背景、生き様を交えながら解釈することになりますよね。それはとても意義のある読み方ですが、下手をすると読み手側が意図したストーリーを描いてしまうこともあり得ます。
 

結局はどういう目的で読解を取り扱うのかによって、読む深度が変わるということなのだと理解しています。

一方、その基礎となるのは論理関係の読解だというのが現場に立っているときの感覚なのです。エビデンスがないのが苦しいところですが。
 

個人的には、上記1の読解が行えない状況は筆者の意図を汲み取らずに都合よく切り取る読み方をする人を増やすという意味で、現状に危機感を覚えています。

某大臣と某ジャーナリストのやり取りに関する報道のようなことが、AO入試でよく問われる小論文の世界でも頻繁に起こっています。
 

一方で、上記2の読解を最初から求めてしまうと、指導者と生徒とのスキルに乖離があるので、そのメソッドを体系化しないまま読解をさせていくのは少し無理があると感じます。

いきなり深い思考まで飛び込ませるような指導になっているのは、生徒にとってかなり苦しいのでは。。。

まずは表層的な部分の読解(上記1のような論理関係を読むこと)から対策していくことから始めていくとよいのではないかなぁ、と感じた次第です。

まだ仮説なので何とも言い難いですが。。。