私の高校内予備校講座の授業

代表の神崎です。

弊塾は高校で出張授業も請け負っており、今年度は14校より受注を頂いております。

その様子を少しお話してみようと思います。

私の授業の目的は「思考ツールを手渡すこと」。

小論文となると、テーマを手渡されて、いきなり「書きなさい」となることがあるわけですが…

思考そのものを形成できない人にとって、これはかなりハードルが高いのです。

「思考→表現」の手続きの中で、小論文は「書く」という表現の一つにすぎません。

「書き方」を教えるだけの指導ではナンセンスというか、片手落ちなんです。

「どう思考すればいいのか」を徹底的に鍛えましょうというのが、私の講座の大きな特徴です。

その方法として、今のところ最もやりやすいのが協働学習と集団授業、個人ワークのハイブリッドだと感じています。

協働学習のよいところは、他者との議論の中で様々な気づきが得られることです。

メンバーの意見に共感したり、自分の意見とのずれにモヤ感を抱いたり、自分の知識や理解の不足を補完したり、時には発言できない自分の不甲斐なさに打ちひしがれたり。

仲間との意見交換とファシリテーション(受講人数が多いので、ファシリでは対応が難しく、私からのリフレクションで代用することになりますが)によって、より一段深く思考することを促すことができます。

こういう経験は、個人で戦うだけでは得られません。

一方、集団授業や個人ワークも行います。

結局のところ、小論文は個人戦ですので、最後は自分で行えないといけません。

自分で発散と収束(デザイン思考の基本中の基本ですね)、段落構成や字数のコントロールができるように、私がレクチャーします。

ここはプロがサクッと手軽に教えてしまったほうが早いので、そういうところは効率的に教えてしまいます。

個人ワークは、答案作成を通して、思考と表現まで一貫して行います。

昨日は神奈川・伊勢原の向上高校でAO・推薦入試対策の小論文講座を実施してきました。
全7回中、2回目です。

今回は「中学で9科目以外に新しい教科を作るとしたら」というテーマにしました。

都立高校のグループディスカッションでも取り扱われています。

難易度としては低めです。

なお、私のクラスでは創造的思考を持つ高校生を生み出そうとしています。

こうした思考は、国際理解思考および教養主義的思考を凌駕すると信じているからです。

詳しくは本間勇人先生のブログ『ホンマノオト』をご覧いただくと、よくわかるかと思います。

http://pschool.cocolog-nifty.com/blog/2017/05/01-4bd3.html

テーマを提示するさいに受講生に示す要件は3点。

・「人間の 一生を通じての成長と発達の基礎づくりとして、国民の教育として不可欠なものを共通に修得させるとともに、豊かな個性を伸ばすことを重視しなければならない」という中等教育の意義を念頭に置くこと
・上記『一生』というキーワードに注目し、中学生たちが大人になったときに訪れる未来を予測すること
・予測に基づいて、現状の9教科で賄えないところはどこかを検討すること

この課題に先立って、今後訪れる未来について、タブレットを使って調べ学習をしました。

最初に取り扱ったのは、以下のサイト。

わたしの仕事、ロボットに奪われますか?

自分が就きたい(興味のある)職業がロボットに奪われる確率を簡易的に示してくれます。

そのうえで、AIの進展、グローバル化、人口問題、少子高齢化、共同体の崩壊、日本経済の進展をもとに、今後の未来に起こりそうな課題を整理します。

全員が共通認識を持ったうえで、個人ワークの開始。目的は帰納法の習得。

のちに、グループワークで個人ワークのアウトプットをシェアし、根拠のグルーピングや優先順位の整理の上で立案、結果を発表。

今回はクリティカルな視点をもって検討することをミッションとしました。

「批判」という意味を、論理的側面(問題・課題について、根拠をもとに指摘・改善すること)と感情的側面(問題・課題について否定・攻撃すること)に切り分け、前者を行い、後者の意味は含ませないことを確認。

ここの確認の有無で、擦れ違いが起きてしまうので。

実際に出てきた受講生たちの案は以下の通り。

  • 社会体験(自分たちの世代だけで固まるのでは視野が狭くなりがちだから、多様な人と接して多様な価値観と接したり、問題や課題を見つけたりするような科目を作りたい)
  • ロボットを扱うための科目(ロボットと人が共存するためには、社会事象を理解して両者の役割を線引きする能力が人間側に求められるから)
  • 英語のスピーキング(外国人が増えてくると対話が必要になるけれど、現状ではその力を養うことが難しいから)
  • 道徳(多様性を理解するためには、人と共存するための人間性を養う必要があるから)
  • 情報(大量のデータを取り扱ったり、ロボットを動かすための方法を学んだりすることが、将来役に立つから)
  • 日常英語コミュニケーション(グローバル化が進むと外国人が日本に多くやってくるし、オリンピックを契機に移住者が増えてくるので、日常的に英語を話す機会が増えるので)

意見をまとめる時間は5分間。

時間を長くしても結果はあまり変わらないというのが、私の感覚です。

そして、発表のさいに私がクリティカルな指摘をします。

ここの意図は、仮説と検証の意味を理解してもらうことです。

私がいままでの知見を総動員して反論し、論理的な穴を「見える化」していきます。

  • 多様な人と接して、本当に価値観の理解や問題・課題発見につながるのだろうか?ほかの手段はなかったのか?
  • ロボットを扱うための科目という設定でよいのか?社会事象を理解する授業という立て付けでは支障があるのだろうか?ロボットを扱うための内容として、それで事足りるのだろうか?
  • 英語のスピーキングは「新しい」教科になるのだろうか?既存の科目のカリキュラム修正で済むのではないか?そもそも英語に特化する意味は何か?世界で最も使われている言語は中国語、その次はスペイン語なのに、なぜ英語?
  • 道徳という教科の意味はどういうものか?シチズンシップや共生といった科目では問題があるのか?そこに「新しさ」があるのか?
  • 情報というけれども、様々な課題が入り乱れていないか?データサイエンティストを育てるのか、プログラマーを育成したいのか、といった手段を考える前に、目的を言語化しておく必要があるのではないか?
  • 東京オリンピックは一過性のものだし、それをきっかけに永住する人が増える可能性はあるが少数ではないか?それが本当に日本人の日常になるのだろうか?

こうした指摘を遠慮なくぶつけます。

これらをもとに再度仮説を検証してもらい、次回の授業で同様のサイクルを繰り返します。

ここが私の授業の特徴であり、賛否両論あるところかと思っています。

否定的に捉える方が抱く理由の一つに、カウンセリングの中にある「受容」が行えないのではないか、というものがあると思うのです。

そもそも受容は支援者と要支援者との間にラポールを形成することにあるのでしょうが、私の授業は「感情と論理を切り分けること」「自らの論理をクリティカルに見つめること」が目的なので、そもそもの目的設定にずれが生じているのですよね。

そうした中で議論を行っても、すれ違うばかりだと思うわけです。

今、このブログを追補して思ったのですが、こうした反論を見つめるのは対話型ではなく、テキストベースで行うほうが熟考できますよね。
私も対話の中で反論し返すことが難しいと思っていました。
大体、色々言われて、反駁が思いつくのは、議論終了後に帰宅する間に振り返るときです…

人によっては脊髄で反論する癖がついている人もいて、大体論理が破綻するんです。

肝心なのは反論し返すことではなくて、問いに誠実に答えることなので、それに集中したいですね。

対話をじっくり行う時間が取れないのであれば、反論だけを私が提供して、グループで再度議論をするという流れを汲んだほうがよいのかもしれません。

ちなみに、生徒の根拠で特に多いのが、メディアからの言説を鵜呑みにして、それを事実として根拠づけしているもの。

メディアの情報を無自覚に正しいと思い込んでいないか、一次ソースに当たったうえで発言しているのか、二次ソースや三次ソースをもとに論理構築した主張は本当に成立するものなのか。

一度確認をしたうえで発言をしようと促します。

私の授業における思考力育成の肝は、仮説・検証サイクルを「高速で」回すことを癖づけることです。

よく先生方が「熟考せよ」と投げかけますが、その前提として「高速で仮説と検証を繰り返す」ということを忘れがちなんですよね。

本当に熟考している人は、一つの思い付きに固執するわけでなく、自らの力でクリティカルに主張を捉え、修正し、新たな問いを見つけていきます。

ただ、それが自力でできないのが初心者。

ですから、それを私との対話で「見える化」し、「こういう反論が考えられるのか」ということを経験化してもらうわけです。

それをクラス全体でシェアすると、様々な反論のケースを体感でき、その様子から採点者(といっても私ですが)の視点がわかっていきます。

ですから、受講生には「失敗を厭わず、私を壁打ち相手にして遠慮なく試してみて」と言っています。

これで凹む高校生も多いのですが、信頼関係が構築できてくると、そのうち慣れてきます。

また、高校生によっては感情的に反論してくる(論理の誤謬があるのに、それが正しいと声を大きくしてねじ伏せようとする)ことがあるので、私のほうが感情的な反論にならないように気を付けながら進めます。そういうときには、生徒に論理の誤謬のパターンを示すこともあります。

wiki先生、最高。

この過程を通して、私は健全に批判を受け取り、吟味し、自らの主張に取り込むことの大切さを伝えます。

そして、こうした批判は人格否定ではないこと、前向きに批判を受け取ることが重要だということを体感的に理解してもらいました。

私がこうしたクリティカルな質問を投げかけるのは、最初のうちに留めます。

最終的には、受講生たちに自走してもらうので、彼らが自分たちの力でクリティカルな思考ができてきた時点で、私の関与の度合いを減らしていきます。

ちなみに、クリティカルな指摘をしたおかげか、授業終了後に受講生が色々反論やら相談にやってきました。

「僕らは日常英語コミュニケーションの重要性を東京オリンピックを経て定住する外国人が増えるからと話しました。でも、先生はそういう外国人が増えるというのは限られるし、日本人の日常になるとは言えないのではないか、そういう特殊事例で裏付けするなと言っていました。けど、美術だって限られた人のためのものであって、僕たちの提案と同じ性質じゃないですか」

うん、面白い指摘。

私からは、それはあくまでも援用であって英語コミュニケーションそのものの必要性を裏付けるものではないから、本当に日常的に英語を用いる必要性があるのかを根拠として示す必要があるよね、と伝えました。

「社会体験の提案をしたとき、先生に核心を突くことをサクッと刺されました。。。別に他の方法でもいいし、多くの中学生がその体験を通して何を学ぶのかがわからないよねって」

私からは、それはアイデアというよりも授業の設計上の課題だよね、体験を経験化するという手続きを踏むといい回答になるよね、と話しました。

こうしたクリティカルな指摘は、受講生を目覚めさせるきっかけになるような印象を受けました。

集団授業中心の講義と比べても、質問の質が変わりました。

それまでは「どう書けばいいんですか?」「書き方がわかりません」といった、一種のボヤキや愚痴に近い話ばかりだったのですが…

思考した内容に関する質問や反論が出てくるようになったところを見ると、だいぶ思考がアクティブになってきたようです。

これは小論文の添削指導では得られない、面白い反応だと感じています。

添削でのやり取りだと、この1サイクルにえらく時間がかかるんですよね。

しかもサイクルの間に生徒のモチベーションは下がり、冷めきってしまうんです。

それよりもこうした対話が重ねられるというのが、添削指導だけよりも講義スタイルのよいところだと思っています。

実際に現場に立っていると、「意見はこれ、理由はこれ」とリニアに導こうとする方法論には違和感を覚えていますし、実際に答えが一つしかないと刷り込まれている高校生も多いものです。

その「あたりまえ」をどうぶっ壊すかが、私の使命もあります。

意見は人それぞれであることは当たり前で、その意見を実行フェーズに持ち込むためには、意見を仮説として捉え、検証と再立案を繰り返していく手続きが必要です。

ですから、私の授業では、集団での授業の中でも対話が生まれるように意識しています。

対話の中で大切にしているのが「あくまで自分の意見は仮説であること」を認知してもらうことです。

意見とその目的は尊重したい、けれども現状のままではその意見は論理性を欠くので成立しないよ、だからどういう検討をすれば目的が達成できるのかを考えようよ、ということを促します。

その前提として、目的がいかに価値のあるものかを徹底的に検討することが必要だと思うのです。

短期的な目的を追って日々を生きることも(日銭を稼ぐうえでは)大事だと思いますが、一方で、他者や社会の幸せを願うという価値を長期的な目標に含ませ、自己の価値を意味付けしてほしいなぁ、と思って日々授業に臨んでいます。

これは私の思いであり、願いであるところですが。

特に、以下の事柄をワークの中で適宜話しながら、授業を進めています。

  • 常にクリティカルな視点をもって自らの主張と接する
  • 目的と手段を切り分けて考える
  • まずは目的設定の妥当性を検討する
  • 目的に応じて、最適な手段を選択する
  • それらの裏付けとなる根拠の整理とブラッシュアップを行う
  • 自らの主張はあくまでも仮説と位置づけ、検証のさいに受けるフィードバックを感情抜きで捉える
  • 上記のフィードバックは、目的達成のための有用な糧となると意識する
  • 仮説と検証の繰り返しを重ねると、最善解が生まれると信じ続ける

その大前提として、個人的に意識していることもあります。

以下に羅列します。

  • 教育とは子どもおよび他者・社会が幸せになるために施すものであること
  • 論理性・合理性よりも、自他の存在を肯定する強い目的意識を持つことが幸せな社会を構築するのだと信じること
  • 論理性は上記の目的意識を補完する優れた道具であることを認識すること
  • すべての意見は尊重されるべきものだと意識すること
  • 感情と論理を切り分けること
  • 自他の感情を否定しないこと
  • 遠い未来を見据えて最善解を導くこと(バックキャスティング)
  • 共同体が崩壊されゆく中で新たな共同体意識を構築すること(同じ空気を吸う仲間であることを自覚すること)
  • 学びとは人を幸せにするものであり、不幸へと導くものではないこと
  • 他者からの否定を、感情抜きに受け止めること

対話は、高校生の思考を促す唯一の手段です。

哲学的な対話といった高尚なことを行っているわけではありませんが(個人的に哲学対話が好きです)、クリティカルな視点を持ちつつも、自己の主張を対話をすることが大切だと感じています。

そして、私は話者の価値観を尊重し、その尊重のために対話に参加する役割を担っていると認識することに徹します。

そして、決して答え(らしきこと)を言うことなく、一段深い思考へいざなう支援を行うことが私の仕事です。

対話思考の意味が、まだ経験則でしかないものの、少しずつ分かり始めたような気がしています。