クリエイティブキャリアデザイン 神﨑史彦が考える「次世代教育」の方向性
宣言します。
カンザキメソッド、そして神﨑史彦は学習者のクリエイティブキャリアデザインを支援し、未来を切り開く次世代を育てます。
※クリエイティブキャリアデザインとは
「自らの好奇心を軸に課題を設定し、仮説と検証を繰り返しながら追究する『探究サイクル』を経て、自らの生き方と公共との接続点を考える人生設計のありかた」と私(神﨑史彦)が定義しました。
公教育、特に中等教育機関においては、進路先への進学や就職を目標に置きキャリアを描く「進路先キャリアデザイン」が行われています。他方、総合学科でよくみられる多様で柔軟な進路先を用意するというマイナーチェンジ版もあります。
しかしながら、私はそのあり方に、常に疑問を抱いてきました。いまだに模擬試験の結果と偏差値表をもとに大学や学部を選択する進路指導の現状があります。それが多種多様な進路を提示されても同じです。本来なら行われるべき「何を学ぶのか」を探究すること、「学びを問う姿勢」を身につけることに重きを置いている学校はあまりありません。
また、「キャリアデザイン」という名のもとに、学校や業者によって絞り込まれた進路説明会や講演会、インターン、職業体験を実施する学校もあります。しかしながら、本来なら行われるべき「体験の経験化」、すなわちこうした体験をもとに解釈を加え、メタ化した学習観・職業観を持つ機会を与えているところは皆無です。
そうした「進路先ありきのキャリア教育」は、生徒たちの様々な可能性、探究の種の存在すら気づかせないのではないかと、私は危機感をもっています。長年教育産業と公教育の狭間で活動をしていますが、大学は研究・探究の場であること、専門学校は技術の鍛錬の場であること、職業とは自らが育てた探究の成果を公共に還元する場であること、というマインドセットができていない学生が大量生産されていることに疑問を抱かざるを得ません。
特に顕著なのが、AO入試対策の現場です。高校3年生の出願間際になっても大学で何を探究したいのかが考えられず、志望校ありきで辻褄をあわせようと論理を破綻させ、行動もせず、机上で論じた志望理由書を私のもとに持ってきます。日ごろから探究していないために、出題者の意図や課題文やデータとの向き合い方がわからず、作文レベルで小論文を書いてきます。「面接は楽勝」と簡単に言うけれど、実は志望理由も自己アピールもズタズタな生徒もやってきます。これがいわゆる高偏差値校の出身でもかなりの確率で起こります。
一方、学びの本質や大学・専門学校・職業の定義、あるべき姿を探究する姿勢を養おうとしない教育産業界も問題を抱えています。いまだに一般入試対策に終始している塾や予備校は論外です。AO入試対策専門塾の多くはその本質を追究せず、指導の過程で生徒たちを混乱させたり、自己の成功体験しか持たない学生講師にAO入試指導をさせたりしています。倫理的に疑わしい方法で合格者を確保したり、政治を利用して勧誘活動を行ったりする塾もあります。どこに志があるのか、そうした塾の経営者や指導者たちに尋ねたいです。
他方、公教育についても同様です。人生のあり方や学びに対する探究をさせていない高校1年生の段階で文理選択を行ったり、自己責任という名のもとに進路指導自体を手放したり、文章指導を行っても表現ばかりに執着し論述内容まで踏み込もうとしない先生がいたり、志望理由や小論文指導が国語科と進路指導部に集中して指導がうまくいかなかったりしています。
学校では私にとってショッキングな出来事も起こります。私が2020年以降の進路指導のありかたについて話したところ「我々は2020年までに一般入試合格者を多数輩出することがミッションであって、神﨑さんのいう話は5年早い」と言い放った一般入試対策に執着する先生もおられます。また、私が学校の探究活動に対してクリティカルシンキングとロジカルシンキングの育成講座を提案したところ、「中学1年からクリティカルシンキングなど早すぎる」と言って私を追い出した学校もあります。
すべては当事者たちが「何を学ぶのか」「何のために学ぶのか」「本当にそれは自分が求めている学びなのか」を探究してこなかった結果です。そして、その根源は大人の側にあるのです。学校、家庭、社会、地域、各種団体、文部科学省、教育委員会。それぞれの思惑や方針があり、崇高な理念のもとに様々な取り組みを行うのはよいのですが、連携がうまくいかず、選ぶ側が上手に交通整理をすることも難しく、長期的なキャリアビジョンを意識したものにはなっていないわけです。
そうした大人の都合にかき乱され、最終的には子どもたちが学びを手放していくのです。彼らが大学進学のときに発する言葉を聞けばわかるでしょう。「偏差値が低い(高い)からこの学校に行く」「この学校は雰囲気がいいから第一志望(悪いから行かない)」「先生が『今は夢を追いかけている場合ではないからとりあえず勉強しろ』と言った」「勉強なんて嫌い」「学校の勉強なんて意味がない」。こうしたことを軽々と口にするような子どもを、我々は量産したいのでしょうか?
私が「クリエイティブキャリアデザイン」という概念を定義し、エバンジェリストとして企業活動をしているのは、学びの本質を知っている子どもたちを数多く社会に送り出し、彼らと社会が学びの果実を得ることが教育が目指すべきところだと確信したからにほかなりません。
このキーワードは私とのディスカッションの中で21世紀型教育に精通する本間勇人氏が生み出したものです。本間氏は私とのディスカッションの中で、私の思いを以下のように言語化してくださいました。
(クリエイティブキャリアデザインとは)今までのような進路先キャリアデザインやそのマイナーチェンジである多様で柔軟な進路先キャリアデザインという小さな逆算型プログラムとは全く次元も質も違うものである。
彼らが生きる世界はどういうものか、探究した末に描きたい世界はどのようなものかを言語化し、バックキャストをしつつ、生徒自身の好奇心と世界をつなぐところから始まり、好奇心が探究心にシフトし、そこから創造的思考が大車輪ように回転し始める。そこに思いもよらぬ新たな仕事が、彼のためにゲートを開く。
そのゲートは、クリエイティブキャリアデザイン以前には、存在すら知らされない。だから、進路先キャリアデザインをやると、その新たな仕事が見えないために、生徒にとって本当に自分のやりたいことかどうかわからないまま、形式的に進路指導が行われてしまうのだ。つまり、未来の希望を摘み取る進路指導が行われる危険性が横たわっている。そこに気づいていない現状がまさにユデガエルさながらではないかと恐怖を感じるのは私だけだけだろうか。
http://pschool.cocolog-nifty.com/blog/2017/03/01-cefe.html
以下、本間氏の言葉をお借りし、弊社のミッションについてお話します。
カンザキメソッドは公立高校、私立高校、予備校、そして教室(カンザキメソッド AO・推薦入試対策ゼミ)で、小論文とAO入試などの学習ポートフォリオ(志望理由書・自己アピール・活動報告書・面接・グループディスカッション)を中心としたアプリケーション作成スキルを教えています。他方、これらに関連するコンサルティング、コンテンツ作成、AO入試対策webサービスLandmarkの開発と運営を行っています。それらの根底にあるのは「クリエイティブキャリアデザイン」です。
しかし、あくまでもこれらはカンザキ式包括的なキャリア・デザイン・プログラムのパーツであり、部分と全体の統合的な学びのデザインを創出することが真の目的なのです。高校や受講生のニーズを引き出しつつ、クリエイティブキャリアデザインの世界をどう構築するのかを協働で生み出し、プログラムを紡ぎ出すことを得意としています。
こうした小さなイノベーションが学校・生徒を変容させ、個別のイノベーションが包括されて、ようやく大きな革新のチャンスが訪れます。私はその種を撒き続けることに生涯をささげようと、神奈川・横浜の地を拠点に日々邁進しています。
「受験産業のど真ん中にいるお前が言うな!しかも東進ハイスクールにいるじゃないか!」とお叱りを受けることは承知しておりますが、そもそも私自身は一般入試ではなくいわゆる学力型AO入試で大学に入学したもので、他の受験産業界の方とは価値観自体が違います。私は高校と大学の学びが分断されていることに疑念を抱いていますし、そもそも「一般入試の学力が高ければ、大学で優れた学びが得られる」という仮説は成立しません。そうした中でただ大学入試という壁を越えさせるために必死な姿を見ているのは耐えられないのです。
「神﨑がいうことは理想論にすぎない」ともいわれます。はい、その通りです。でも、なぜ理想を現実の世界に「教育の側が」導こうとしないのでしょうか。現実的な事柄に手いっぱいで理想に近づけないなら、それは思考停止と同じです。しかも、現実の世界でもそうした探究の芽を育て、生き生きと大学で学ぶ生徒を数多く見てきましたし、生んできました。
「学びは長い人生で行うものだし、経験しないとわからないのだから、そんなに早く人生を決めなくてもいいのではないか」という方もいます。しかし、今の日本の制度上18歳の時点で学部・学科決定を通して専門を決めなければならないし、そこに照準を合わせてキャリア形成をするのが筋でなのではないでしょうか。一方で、大学受験を頂点とした進路指導ではそのマインドセット・スキルセットが難しいわけです。人生は長いとはいえ、探究の種を見つけるマインドやスキルがなければ、結局は自分が望む道は見つからないのではないでしょうか。
「お前は学校教育を否定するのか!失礼な!」とも言われることもあります。私は学校教育の恩恵を受けて育ちましたし、肯定すべきことはあります。安定して高水準の教育を施すシステムは典型例です。ただ、クリティカルな視点を持って公教育を見つめると「本当にそれでいいのか?」と考えてしまうこともあります。その中で私が最も疑問を抱いているのが進路指導・キャリア教育と高大接続だというだけです。おそらくクリティカルな視点をお持ちの人なら、視点は違えど公教育への疑問は抱くものなのではないでしょうか。
なお、「学校での勉強は無駄かどうか」という陳腐な議論をするつもりはありません。無駄かどうか、活かすかどうかを決めるのは学んだ本人です。一方、私自身は学校での学びという基盤があるからこそ探究自体も豊かになるものですから、学校での勉強もあっていいと思います(「学び」と「勉強」は意図的に分けて用いています。「勉強」は「学び」という集合の中に含まれるものです。普段の生活では「勉強」という言葉は好んで使いません。)。なお、個人的には学校での勉強のみならず、さまざまなところで学んでくる知的体力がある生徒が尊敬されるべきだし、そもそもそうした探究した生徒を評価するのがAO入試です。
最後に、私が描きたい世界観を皆様に共有します。
私とともにクリエイティブキャリアデザインの世界を広げていく仲間として、教育産業界から子どもと学びのありかたを構築していただければ幸いです。
何卒ご支援の程、よろしくお願い申し上げます。
カンザキメソッドが目指す世界
先に生き行く者が世界中に探究の種を撒き
自らの意志と好奇心でその種を見つけ
自分と他者で芽を育み
学びの果実を公共で分かち合い
幸せな社会を構築する
株式会社カンザキメソッド
代表取締役 神﨑 史彦
