スタディサプリ講師就任&大学院進学のご報告

本日4月1日より、スタディサプリ(株式会社リクルートマーケティングパートナーズ)の講師として就任するとともに、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程(湘南藤沢キャンパス)に入学することをご報告申し上げます。

慶應義塾大学大学院では、クリエイティブ・ラーニング、探究の領域の研究をします。
研究計画書は「探究にSparkJoyする瞬間を捉える」ということを書いていましたが、ここ数日で少し見える世界が変化したので、大きく変わりそうな予感です。

*********************************************************************

ここに至るまで、どのように考えたのかをお話ししてみようと思います。お暇な方は、お付き合いください。

①スタディサプリにjoinする経緯と背景

教育業界に足を踏み入れて24年が経ち、ここ数年は教育の世界で私はどう生きるべきかを突き付けられているように感じていました。

途中スタートアップ界隈に立ち寄り、何とか教育ビジネスを成功させたいと、探究学習塾やeポートフォリオ開発を行いましたが、いずれも失敗し、大きな傷を負いました。
結局残ったのは、予備校講師、学校内予備校の仕事、そして私の塾(AO入試対策塾)でした。
ビジネスとして成功したいけれども、うまくいかない。
「あぁ、結局は資金力がないと、教育ビジネスでは成功したいのだなぁ」と正直諦めていたところがあります。

そうした中、3年前に21世紀型教育の世界に足を踏み入れました。
その世界は、いままでとまるで違いました。
多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」、いわゆる黄金律をどう実現するかを、願うようになりました。
私の中にある教育のあるべき姿が「次世代以降に引き渡したい世界をどうつくるのか」と変わりました。

その願いは、わが子の名前の由来と重なります。
私も3人の子どもを儲け、「一真(いっしん)」「理来(りく)」「未来(みらい)」と、真理と未来に一筋の光を与える人になってほしいという願いを込め名づけました。
彼ら彼女らが幸せに生きる世界を、もちろんわが子のみならず、この世に生を受けた人々に向けてどうつくるか。
これが私の大きな課題であり、おそらく一生かけて実現すべきだと感じています。

それは「個々の才能を認め、互いに編み上げる世界」です。

ハワード・ガードナーの多重知能理論では、人々はそれぞれ異なる才能を持つのだと語ってくれています。
そもそも才能の軸は多様だし、認知の仕方も異なるということ。
ならば、互いの才能を共同体の中で差し出し、共に世界をつくればよいのです。

そして「自己が世界の一部となる世界」です。

サルトルによると、人間は実在ののちに本質が生まれるのだといいます。
人間は生まれたときは真っ白で、自らが生きる世界を取り込んで自己が形成されるということ。
つまり、自己は世界の一部を取り込んだものだということです。

ならば、つくりたい世界を自らがつくって、自己に取り込んでしまえばいい。
これはアラン・ケイ。

そして、自己の中に世界があるのなら、世界の中にある自己とはどうあるべきかを考えてほしい。
これはデリダの「脱構築」の捉え方ですね。

私はそういうマインドとスキルを持った次世代が、数多く生まれることを願ってやみません。

しかし、残念ながらそうはなっていません。
それは学校教育の影響を多分に受けているというのが、理由の一つではないかと考えています。

学校教育の世界では、要素を分解して「教科」「学校行事」「部活動」等を分け、大人からそれぞれの指標が示し、その指標による評価の良し悪しによって子供たちはラベリングされ、ときに抑圧されます。
自己が一定の指標によって振り落とされ、否定され、才能が摘まれていく…

私はそういう抑圧的な教育(者)に否定的な立場です。
抑圧的な教育が本当に未来をつくるのでしょうか。

そもそも、ヒエラルキーの全ては「分ける」ことから始まります。
「持つ者/持たざる者」「評価される者/されない者」「貧富の差」「差別」「多様性の拒否」「上下関係」、教育で言えば「教師側の評価軸に乗る者/零れ落ちる者」「教科分断」「教師/生徒」など…
これらは分けられた世界です。
そして権力を持つ者は人々を抑圧し、管理し、マウントする。
その闘争が紛争や戦争を引き起こします。

そういう抑圧的で「分ける」教育観の中、異質のものが新たに加えられました。
「総合型選抜」や「総合的な探究の時間」という統合的な学びです。
私はこうした統合的な学びのプロデュースを通して、「分けない世界」を次世代に引き渡したいと考えるに至りました。

もちろん資本主義社会に生きる以上、「分ける」世界を引き受けなければならないのは了解しています。
しかし、我々は新型コロナ問題のように資本主義・自由主義という世界の限界を実感しています。
それを超える世界をつくること、つまりSustinableな世界を日本につくることが、私の仕事だと感じています。

そうしたことを考え、大手を含め、ここ数年は誰と組むかを模索していました。
しかし、残念ながら縁がなかったり、途切れたり、そもそもそういうところに興味を抱いていただけなかったりと、紆余曲折ありました。

そうした中、ある会でリクルートの知人とお会いし、いろいろとお話を進めるうちに、スタディサプリのご担当者とお会いすることになりました。
その後対話を重ねていくうちに、上記の実現の第一歩として講師としてjoinするということに相成りました。
まさに昨年末の話です。

スタディサプリにjoinし、今後は高校生のキャリア形成ならびに世界創造の在り方、教員支援を通した高校教育の更なる発展をご支援いたします。

おそらく、映像授業に出演するのは、スタディサプリが最後になると思います。
それは私がすでに授業をブリコラージュで、かつProject Based Learningで進めていて、映像講義のようなチョーク&トークのスタイルでやっていないからです。
映像講義をつくる気力と体力はおそらく今の自分が最大値であることが承知していて、それは日本の教育をどう「世界創作」に向けるのかという大きなミッションを達成する必要性を強く感じているからにほかなりません。

この企画開発においては、多くの先生方にはお力をお借りすることがあるかと思います。
そのさいはぜひご協力願えれば幸いです。
 

みなさんで、教育を盛り上げてまいりましょう!

②大学院に進学する経緯と背景

大学院進学は2年くらい前から検討していました。
 

最初は、教育業界にいるならばある程度箔があったほうがいいだろうという、ビジネスを有利に展開したいという意味合いが強かったです。

教育工学、インストラクショナルデザインの領域もあり得るか、またそのときは大学を持つ学校法人との仕事もあったので大学アドミニストレーションや学校法人経営について学ぼうかと考えていました。

しかし、肌感覚として違和感を覚えていました。
そもそも私は科学的思考よりもブリコラージュの色が強い人間です。
また、21世紀型教育を眺めれば眺めるほど、デザインよりアート、「安心・安全・便利・快適だけど制限のある世界」から「責任と能力が必要だが自由な世界」へ向かう力こそ、次世代を生きる上で大切なのだと理解しました。
 

そうした学びは「分けない」教育、探究の世界にあるというのは直観的に感じていました。

その流れは、デューイ―ピアジェ―パパート―レズニック、ヴィゴツキー、レヴィ=ストロース、加えて言うなら西田幾多郎、オルテガ、デリダ、サルトル、そしてメイヤスー、マルクス・ガブリエルと続きます。
そうした文脈のもと、創造的な学びの在り方を突き詰めている井庭崇教授の著書『クリエイティブ・ラーニング』と出会いました。
教育学研究科ではなく、政策・メディア研究科という選択をしたのは、こうした統合的な学びに理解のある井庭先生がいらっしゃったからです。

しかも、構成主義的な学びを超えられそうな感覚がなんとなくありましたし、ここ数日で「クリティカル・デザイン(アート)」「スペキュラティブ・デザイン(アート)」と出会いました。
私は「問題解決」を超える教育、「問題提起」する教育の在り方を研究していきたいと考えています。

私は「総合的な探究の時間において、方法論やカリキュラム設計をデザインする流れがあるけれど、そもそもデザインしてしまう探究の時間は果たして探究なのか?」とつい疑問を抱いてしまいました。
探究なのにレールを敷いて、零れ落ちないように周りが支える…それって探究?

私はそうした予定調和の探究には疑問を抱いているので、あえて生徒たちにはクリティカルな問い、問題提起を投げかけるのですね。
しかし、それを拒否する生徒たちに直面しました。
そのままだと仲良しごっこの蹴鞠探究になるだろうに、問題提起ではなく、自己否定を捉える生徒たち…
自己肯定感が大事という話は理解できるのですが、でもこれから生きる世界をつくりにいこうとする人として、本気で探究をする気があるのか、と疑問を抱いてしまったのですね。

それは単に「問題解決」に向かっているからではないか、というのが仮説です。
でも、今いる世界に身を浸し、構造や人々に根付く価値観をセンシングし、新たに「問題提起」しながら、世界をアップデートする。
それがこれからの生き方なのではないか、と心の底から思います。
こうした世界をどう教育の中に織り交ぜるのか。
これが大学院での研究となるだろうな、と感じています。

*********************************************************************

末筆ではありますが、皆様方にも一層のご支援、ご指導、ご鞭撻を賜るかと存じます。
どうぞ引き続きよろしくお願い申し上げます。

本日4月1日より、スタディサプリ(株式会社リクルートマーケティングパートナーズ)の講師として就任するとともに、慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科修士課程(湘南藤沢キャンパス)に入学することをご報告申し上げます。

慶應義塾大学大学院では、クリエイティブ・ラーニング、探究の領域の研究をします。
研究計画書は「探究にSparkJoyする瞬間を捉える」ということを書いていましたが、ここ数日で少し見える世界が変化したので、大きく変わりそうな予感です。

*********************************************************************

ここに至るまで、どのように考えたのかをお話ししてみようと思います。お暇な方は、お付き合いください。

①スタディサプリにjoinする経緯と背景

教育業界に足を踏み入れて24年が経ち、ここ数年は教育の世界で私はどう生きるべきかを突き付けられているように感じていました。

途中スタートアップ界隈に立ち寄り、何とか教育ビジネスを成功させたいと、探究学習塾やeポートフォリオ開発を行いましたが、いずれも失敗し、大きな傷を負いました。
結局残ったのは、予備校講師、学校内予備校の仕事、そして私の塾(AO入試対策塾)でした。
ビジネスとして成功したいけれども、うまくいかない。
「あぁ、結局は資金力がないと、教育ビジネスでは成功したいのだなぁ」と正直諦めていたところがあります。

そうした中、3年前に21世紀型教育の世界に足を踏み入れました。
その世界は、いままでとまるで違いました。
多くの宗教、道徳や哲学で見出される「他人から自分にしてもらいたいと思うような行為を人に対してせよ」、いわゆる黄金律をどう実現するかを、願うようになりました。
私の中にある教育のあるべき姿が「次世代以降に引き渡したい世界をどうつくるのか」と変わりました。

その願いは、わが子の名前の由来と重なります。
私も3人の子どもを儲け、「一真(いっしん)」「理来(りく)」「未来(みらい)」と、真理と未来に一筋の光を与える人になってほしいという願いを込め名づけました。
彼ら彼女らが幸せに生きる世界を、もちろんわが子のみならず、この世に生を受けた人々に向けてどうつくるか。
これが私の大きな課題であり、おそらく一生かけて実現すべきだと感じています。

それは「個々の才能を認め、互いに編み上げる世界」です。

ハワード・ガードナーの多重知能理論では、人々はそれぞれ異なる才能を持つのだと語ってくれています。
そもそも才能の軸は多様だし、認知の仕方も異なるということ。
ならば、互いの才能を共同体の中で差し出し、共に世界をつくればよいのです。

そして「自己が世界の一部となる世界」です。

サルトルによると、人間は実在ののちに本質が生まれるのだといいます。
人間は生まれたときは真っ白で、自らが生きる世界を取り込んで自己が形成されるということ。
つまり、自己は世界の一部を取り込んだものだということです。

ならば、つくりたい世界を自らがつくって、自己に取り込んでしまえばいい。
これはアラン・ケイ。

そして、自己の中に世界があるのなら、世界の中にある自己とはどうあるべきかを考えてほしい。
これはデリダの「脱構築」の捉え方ですね。

私はそういうマインドとスキルを持った次世代が、数多く生まれることを願ってやみません。

しかし、残念ながらそうはなっていません。
それは学校教育の影響を多分に受けているというのが、理由の一つではないかと考えています。

学校教育の世界では、要素を分解して「教科」「学校行事」「部活動」等を分け、大人からそれぞれの指標が示し、その指標による評価の良し悪しによって子供たちはラベリングされ、ときに抑圧されます。
自己が一定の指標によって振り落とされ、否定され、才能が摘まれていく…

私はそういう抑圧的な教育(者)に否定的な立場です。
抑圧的な教育が本当に未来をつくるのでしょうか。

そもそも、ヒエラルキーの全ては「分ける」ことから始まります。
「持つ者/持たざる者」「評価される者/されない者」「貧富の差」「差別」「多様性の拒否」「上下関係」、教育で言えば「教師側の評価軸に乗る者/零れ落ちる者」「教科分断」「教師/生徒」など…
これらは分けられた世界です。
そして権力を持つ者は人々を抑圧し、管理し、マウントする。
その闘争が紛争や戦争を引き起こします。

そういう抑圧的で「分ける」教育観の中、異質のものが新たに加えられました。
「総合型選抜」や「総合的な探究の時間」という統合的な学びです。
私はこうした統合的な学びのプロデュースを通して、「分けない世界」を次世代に引き渡したいと考えるに至りました。

もちろん資本主義社会に生きる以上、「分ける」世界を引き受けなければならないのは了解しています。
しかし、我々は新型コロナ問題のように資本主義・自由主義という世界の限界を実感しています。
それを超える世界をつくること、つまりSustinableな世界を日本につくることが、私の仕事だと感じています。

そうしたことを考え、大手を含め、ここ数年は誰と組むかを模索していました。
しかし、残念ながら縁がなかったり、途切れたり、そもそもそういうところに興味を抱いていただけなかったりと、紆余曲折ありました。

そうした中、ある会でリクルートの知人とお会いし、いろいろとお話を進めるうちに、スタディサプリのご担当者とお会いすることになりました。
その後対話を重ねていくうちに、上記の実現の第一歩として講師としてjoinするということに相成りました。
まさに昨年末の話です。

スタディサプリにjoinし、今後は高校生のキャリア形成ならびに世界創造の在り方、教員支援を通した高校教育の更なる発展をご支援いたします。

おそらく、映像授業に出演するのは、スタディサプリが最後になると思います。
それは私がすでに授業をブリコラージュで、かつProject Based Learningで進めていて、映像講義のようなチョーク&トークのスタイルでやっていないからです。
映像講義をつくる気力と体力はおそらく今の自分が最大値であることが承知していて、それは日本の教育をどう「世界創作」に向けるのかという大きなミッションを達成する必要性を強く感じているからにほかなりません。

この企画開発においては、多くの先生方にはお力をお借りすることがあるかと思います。
そのさいはぜひご協力願えれば幸いです。
 

みなさんで、教育を盛り上げてまいりましょう!

②大学院に進学する経緯と背景

大学院進学は2年くらい前から検討していました。
 

最初は、教育業界にいるならばある程度箔があったほうがいいだろうという、ビジネスを有利に展開したいという意味合いが強かったです。

教育工学、インストラクショナルデザインの領域もあり得るか、またそのときは大学を持つ学校法人との仕事もあったので大学アドミニストレーションや学校法人経営について学ぼうかと考えていました。

しかし、肌感覚として違和感を覚えていました。
そもそも私は科学的思考よりもブリコラージュの色が強い人間です。
また、21世紀型教育を眺めれば眺めるほど、デザインよりアート、「安心・安全・便利・快適だけど制限のある世界」から「責任と能力が必要だが自由な世界」へ向かう力こそ、次世代を生きる上で大切なのだと理解しました。
 

そうした学びは「分けない」教育、探究の世界にあるというのは直観的に感じていました。

その流れは、デューイ―ピアジェ―パパート―レズニック、ヴィゴツキー、レヴィ=ストロース、加えて言うなら西田幾多郎、オルテガ、デリダ、サルトル、そしてメイヤスー、マルクス・ガブリエルと続きます。
そうした文脈のもと、創造的な学びの在り方を突き詰めている井庭崇教授の著書『クリエイティブ・ラーニング』と出会いました。
教育学研究科ではなく、政策・メディア研究科という選択をしたのは、こうした統合的な学びに理解のある井庭先生がいらっしゃったからです。